あるくの从作家見聞記<<前回の記事:あるくの从作家見聞記|No.1 亀井三千代展「絵空言」、No.2 渡辺つぶら展
ライターの山田歩(あるく)さんから新しい原稿が届きました。今回の見聞記は東京近郊で行われた人人関連作家による3つの展示について書いていただきました。中にはまさかの「行けてない…!」見られず、聞いただけの見聞記も。考えようによっては面白い試みかもしれません。ゆるりと読んでいただけたら幸いです。
前回のほっとにゅ〜す「大野俊治、郡司 宏、古茂田杏子、田端麻子による展示のお知らせ」でご紹介した郡司 宏、古茂田 杏子、田端 麻子が出展する『昭和の面影』展がギャラリー枝香庵にて、11日(火)から開催予定です。銀座方面にお出かけの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ。(文責 ないとう)
あるくの从作家見聞記 No.3
◉小野なな展『がらくた箱』小品 立体、平面、CG+α
6月5日~17日(2017年) ギャラリー檜e(京橋)

京橋の国立近代美術館フィルムセンター近くにあるギャラリー檜eで開催された小野ななさんの個展『がらくた箱』を病院で受診した後に観に出かけた。その日は手術するかどうか判断して貰う日であったが、幸いに外科手術は回避され気が軽くなり銀座へと向かい宝町駅で下車して小野さんの個展だけでなくアートスペース羅針盤で从展創立メンバーが関西で作ったパンリアルというグループに属していた森川渉さんの個展も観た。他に池田龍雄さんや渡辺豊重さんの個展も観て廻り少々草臥れた。それでも大掛かりな美術館の展覧会より個展はやはり良い。作品とゆっくり向かい合うことができるからだ。
さて小野なな展は画家が体調悪いとの事で不在だった。私は作者と面識がないまま作品だけを観る事になった。ギャラリー内には様々な小品が展示されていて、それぞれの作品から感じたのは病的なほど感受性の強い作家の姿であった。箱の中に納められた人形。そしてCGで描かれた人形の顔やドライフラワー。異次元世界に誘われるような感覚を受けた。私は随分前に読んだ中勘助の小説『銀の匙』を思い出していた。「私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の引き出しに昔からひとつの小箱がしまってある。」という書き出しで始まる小説である。虚弱で神経質で、感受性が強く、好き嫌いの烈しい少年だった中勘助が、自分の幼少年時代を子どもの目線で澄みきって描いている。大人の目線ではない。小野さんの作品もそんな感じがする。最初、小野さんは若い女性だと思っていたが、実際は高齢な方だと後で知った。環境問題に警告メッセージを織り交ぜた作品を継続して創作されている。遺伝子組み換え作物種などに関心の高い方である。地球環境の生死に敏感な作家なのである。それで私は、死を覚悟した難病から生還した生命科学者、柳澤桂子さんの言葉「私はこの地球環境の中に生かされている。花も草も虫もいろいろな動物もいて、中の一つとして私がある。」を思い出していた。柳澤さんは、『安らぎの生命科学』の中で「生命は、地球誕生のときに宇宙からそそいできた星のかけらが、海の中で育まれて生まれたのではないかと推測される。その生命のもっとも基本となる物質はDNAと呼ばれる糸のように長い分子である。」とも語っている。小野さんもまた生命の大切さを感じて、宇宙の中の一本の糸のような思いをこめて作品を創られているのではないだろうか。
私もまた星のかけらの一つである。
(山田歩)
あるくの从作家見聞記 No.4
◉林晃久展 「erotica .9 XVⅡ-絵の具とフィルムー」
6月5日~18日(2017年) ギャラリー元町(横浜)

横浜のJR石川町駅の側にあるギャラリー元町で林晃久展が開かれているのを観に行くことはできなかった。林さんの別名は、マロン・フラヌールである。林さんの時は男性であり、マロン・フラヌールの時は女性の顔を持つアンドロギュノス(男女両性具有者)と言ってよいのかもしれない。ギリシア神話に出てくる男女両性をそなえた神、ヘルメスとアプロディテの子の名前はヘルマフロディトス。ニンフのサルマキスの誘惑から逃れたのでサルマキスは悲しくなって自分の体が彼に結ばれるように祈ったら一体になってしまったのだと、昨年亡くなった美術評論家のヨシダ・ヨシエさんが説明していた。私は林さんの時の彼とは会った事がない。从展で初めてお会いした時はマロン・フラヌールという女性だった。羽黒洞の木村品子さんがマロンちゃんと呼ぶので私もマロンちゃんと声をかけて写真を撮らせて貰った。ふくよかで大柄な女性である。
昔、ある詩人が舞踏家の土方巽さんに会った時、「おいオカマ」と呼ばれたら、「オカマじゃないゲイです」と答えたと聞いた事がある。マロンちゃんだったら、なんて答えるのだろうか。芸術家にはそうした性癖のある人が多いと聞いている。
マロンちゃんの得意技はカメラによる自撮りである。セルフ(自分自身)+ポートレイト(肖像)。マロンちゃんは、作品をphoto、複写、ドローイング、コラージュ、ペインティングで創作する。画面の中には必ずと言ってよいほどマロンちゃんが居る。それも艶めかしいほどエロチックな被写体である。マロンちゃんに似たセルフポートレイトを得意とする画家に森村泰昌さんがいる。彼はマネの作品「オランピア」や「笛を吹く少年」など有名な画家たちの作品にセルフポートレイトして入り込んでいく手法を使っている。森村さんはセルフポートレイトを「自画像」から「自写像」とも言い、さらに「自我像」と呼んでもいいのではないかと著書『美術の解剖学講義』の中で語っている。
しかし、マロンちゃんの作品は森村さんの手法とは違っている。描かれる被写体はご本人そのものである。その周辺をコラージュやドローイング、ペインティングしている。ちなみにコラージュとは普通は糊づけして貼りつける事を意味するが、俗語で「同棲生活」ともいう。写真や文字、布、木片、金属片などなんでも貼り付け画面と同棲させてしまう。
マロンちゃんの作品は幾何学的でユニークだ。そんなマロンちゃんはどこか異人さんのような感じがして、港町・横浜が似合っている。赤い靴履いた女の子は気をつけましょう。
(山田歩)
あるくの从作家見聞記 No.5
古茂田杏子・佐藤草太二人展
6月13日~21日(2017年) ギャラリー・アビアント(浅草)

浅草の吾妻橋を渡り、金のオブジェ(愛称・金のウンコ)のビルを過ぎるとギャラリー・アビアントがある。そこで古茂田杏子さんと佐藤草太さんの二人展が開催され初日に観に出かけた。残念ながら佐藤さんは、不在だった。画家の故・西村宣造さんから彼の絵を観るように頼まれた古茂田さんは、佐藤さんと互いに作品展を通じて知り合い、今回の二人展となったと聞く。古茂田さんは江戸情緒漂う戯画であるのに対して佐藤さんは愛国を謳った昭和の雰囲気で画風は異なっている。共通しているならレトロ感覚かノスタルジーだろうか。古茂田さんは佐藤さんより遥かに年配であり画家として経歴も古い。それ故に彼女を慕う画家仲間も多い。初日とあって画家の緑川俊一さんや森蔦澄子さん、多賀新さん、表装家の岡本直子さん、从会事務局を務める郡司宏さんらが次々に訪れ賑わった。
私は吾妻橋を渡るのは20数年ぶりのことであった。小雨の降る夕方の曇よりとした橋上から眺める墨田川には寂寥を覚えた。芥川龍之介は『大川の水』で「自分は、どうしてかうもあの川を愛するのか。あの何方かと云えば、泥塗りのした大川の生暖かい水に、限りない床しさを感じるのか。」と書いている。大川とは隅田川のことである。また永井荷風『濹東綺譚』の挿絵画家・木村荘八の吾妻橋の絵が目に浮ぶ。吾妻橋の真ん中の欄干に身を寄せて眺めている風景。『濹東綺譚』は向島寺島町にある遊郭の荷風の見聞記。ちなみに「濹」の字は林述斎が墨田川を言い表す為に濫りに作ったもの。文化年代のことである。
私が古茂田杏子さんの絵を初めて観たのは神田にあるギャラリー環であった。ご両親の画家、故・守介さんと美津子さんの絵は2階展示場に飾られ、1階では杏子さんのエッチングが展示されていた。「自画像を描く私」や自らの臨死体験を描いた「こっちの水は甘いぞ、あっちの水は苦いぞ」など印象深い絵を観ることができた。その後、从展では屏風にアクリル絵具で描いたユーモラスな「果報は寝て待て」や今回、アビアントでも展示されている彼女の生い立ちを描いた屏風絵を観た。それから新宿にあるギャラリー・ポルトリブレの『HAIKUと絵とー春―』で池に溺れそうになっている古茂田さんを俳句仲間が吊り上げようとしている滑稽な絵を観た。彼女の俳句「今ならば告白できる椿咲き」の短冊が展示されていた。郡司さんも句会仲間で彼は「出番まつ太夫に似たり八重桜」を詠んでいた。
今回のアビアントでは、古茂田さんは諺に題材を取って和紙に墨、水彩を使い渋い色調で作品を生み出している。茶目っ気たっぷりの杏子姉御は自ら着る白襦袢に「猫に小判を」と描いている。黒の羽織を着て東京、いや江戸の町を風を切り颯爽と歩く姿は、いつもながら惚れ惚れする。(山田歩)
次回もお楽しみに!